茨城の野球人へのインタビュー企画「茨城の野球人」
Profile
名前 | 一宮 大輔(いちみや だいすけ) |
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誕生日 | 1981年5月14日 (42歳) |
出身 | 埼玉県朝霞市 |
野球歴 | 朝霞三小クラブ(埼玉県)→朝霞五中(埼玉県)→仙台育英学園(宮城県) |
茨城県のプロバスケットボールチーム「サイバーダイン茨城ロボッツ」で元球児が活躍しています。県外で育った名門高校出身の一宮さんから見た茨城県についてインタビューのご協力をいただけました。
野球を始めたのは小学校2年生の時です。同じクラスの友達から誘われたのがキッカケで地元の「朝霞三小クラブ」に入りました。学年毎に大会があるのですが、私は4年生ぐらいから1つ上の学年のチームの試合に出ていたため、同級生とプレー出来たのは6年生になってからです。気心知れた仲間たちと一緒にのびのびと野球が出来る喜びがあった半面、6年生はクラブのトップチームでもあり、責任やプレッシャーの方が大きかったかなと思います。キャプテンとしてチームをまとめるためにコミュニケーションの取り方には特に気を使っていました。この頃から相手の気持ちや立場を考えたりすることが自然と身に付いたと思いますし、野球を通して団体スポーツの楽しさも厳しさも知れたような気がします。
中学校では朝霞五中に進学し、野球部に入部しました。監督さんは、埼玉県でも有名な名将で厳しくご指導いただきました(笑)。当時は練習中に水を飲むのはNGで休みなく練習を続けることが当たり前でしたし、いい意味で根性がつきました。中学時代は上下関係や、自分に厳しくできる土台を学ぶことができました。
あまりバッティングは得意ではなかったのですが、中学2年の時に左打ちに変えたことが転機となり、ヒットを量産できるようになったことで、より高いレベルを目指せる可能性を感じることができました。
父の母校でもある「仙台育英学園」は幼少期から見ていた憧れの高校でした。育英カラーと呼ばれるグレーの「IKUEI」ユニフォームを着ることが夢だったので、両親を説得し高校は実家を離れました。
しかし15歳からの一人暮らしは想像以上で、食事以外の身の回り(掃除・洗濯)のことはすべて自分でやらなければなりません。加えて、体育会特有の理不尽!?な厳しさから息つく暇もなく、毎日が怒涛のように過ぎていたように思います。
小学校、中学校で学んだ土台から、高校では総合的にさらに成長できましたし、のちの自分に大きな影響を与えています。今でもふと、よくその期間を乗り越えたなと思いますし、ある意味、周りからの助けなしで生きて行くすべを学べたような気がします。
憧れであった「IKUEI」のユニフォームに身を包み、出場した3年生での夏の甲子園(第81回大会)では聖望学園の鳥谷敬選手(阪神)、桐生第一の正田樹投手(元 日本ハム)、東福岡の田中賢介選手(日本ハム)、東邦の朝倉健太投手(元 中日)などの同学年の一流選手のプレーを見て、プレイヤーとして上を目指すことの壁は大きいことを感じました。3度出場できたことで甲子園のスケールや独特の雰囲気を感じる一方で自分の目に飛び込んできたのが選手や監督に取材する記者の姿であり、将来はマスコミ業界に携わりたい、スポーツ業界で生きていきたいと漠然と思うようになりました。今思えば、ここでの出会いが原点だったのかもしれません。
その後の進路ではマスコミの世界に進みやすい学科を中心に探しましたが、最終的には父の母校でもある法政大学への進学を目指し、一浪の末に入学することができました。
法政大学ではスポーツ法政新聞会に入り、学内スポーツ紙「スポホウ」の記者としていろいろなスポーツを取材しました。法政大学はどのスポーツも全国レベルであり、4月は東京六大学野球、12月は甲子園ボウル(アメフト)、1月は箱根駅伝やラグビーなど、レベルの高い競技や選手を目の当たりにし、野球一筋だった自分にとってはとても刺激のある、視野を広げられた大学生活でした。ただ、当時唯一取材に行っていなかったのがバスケットボールでした(笑)
就職活動では目標であった新聞社と製薬会社と迷いましたが「スポホウ」の尊敬していた先輩が製薬会社に就職していたため、先輩を追って製薬会社を選択しました。当然、当時はそれがベストな答えだと思っていました。同期や上司・先輩にも恵まれ、営業や生産部門といった幅広い業務に携われたことで常に自分磨きを出来る環境にありました。このままこの会社で終わるのだろうなと考えているうちにいつの間にか7~8年が過ぎていました。しかしその頃から、スポーツの仕事を選ばなかったことに、心のどこかでひっかかるものがありました。学生時代の同僚は新聞記者として活躍し、飲みながら話を聞くたびに羨ましく感じていましたが、現実をみれば、会社や仕事内容への不満もありませんでしたし、結婚もして、子どもも生まれ、幸せな生活であったことも間違いありません。
ただ一度点いた火を消すことは、こだわりの強い自分の性格上、難しいことも理解していました。そこで自分なりに現実を知る意味でも、もう一度スポーツ業界へチャレンジするためにはどうすればよいかを真剣に調べ始めたところ、スポーツビジネスの専門学校を見つけました。実際にスポーツ現場の最前線に立つ直伝の話を聞けたことで道が拓けるのではないかと感じ、可能性が残っている以上はチャレンジをしようと決意しました。そのためにまず妻に相談。普通なら問答無用に断られるかと思いますが、うちの奥さんは違いました(笑)。その日はただただ黙って自分の話を聞いていましたが、翌日朝には「気持ちを尊重して応援する」というメールが届きました。もしかしたら、自分以上に腹をくくっていたのかもしれませんね。これまで随所ではアドバイスを求めてきた父からの理解も得たことで、新たなスタートを切ることが出来ました。家族には本当に感謝しています。
そして、通い始めた専門学校で、講師として登壇していた茨城ロボッツの山谷拓志社長と出会いました。その後たまたま茨城ロボッツの求人が出ており、応募。再び山谷さんと出会う機会があり、現在に至っています。
プロスポーツチームの仕事は一見華やかに見えるかもしれませんが、地味な仕事や業務が多く、日々の積み重ねでしかありません。ただ、試合の日はとてもワクワクします。そして、1つ1つに答えが必ず出ます。「ファンを集めること」「グッズを販売すること」「試合の勝敗」など、答えの数だけ反省点や改善点が出てきます。
正直自分はバスケットボールという競技に対しては知らないことばかりですが、視野を広げることで知らないなりに気づくこともたくさんあります。つい最近も埼玉へ帰った際、久々にプロ野球観戦をしましたが、分かりやすい掲示物や展開方法、スタッフ配置やオペレーションも仕組みづくりされていることに改めて細かい工夫を感じました。
今後もいろんなスポーツの実例を見つけながら、ロボッツにも導入し、茨城の皆さんの話の中心や生活の一部になれるようなチーム作りを目指していきたいです。
茨城県民球団が設立されれば、ファンを取り合うのではなく「共存共栄」を考えています。例えば、バスケの試合がないときは野球、野球がないときはバスケのようにファンが行き交えできるような関係作りが理想ではないかと思います。茨城は大都市ではないのに、サッカーあり、バレーあり、バスケありでとても恵まれているエリアです。横綱稀勢の里関の活躍もあり、茨城全体でスポーツが盛り上がり始めています。そこに「野球」という新たなスポーツが増えることは武器でしかないと自分は考えていますし、茨城のスポーツ熱はもっともっと上がると思います。
茨城県は野球人口も多く、高校野球のレベルが高いイメージがあります。茨城県民球団が設立することを通じて、県全体のレベルアップと野球界の発展を目指した逆回転を茨城県から起こすぐらい盛り上げて欲しいです。
夢を追うために単身で茨城に来てくださった一宮さんの、覚悟、決意、熱意を感じることができました。私自身も背水の陣で、人生をかけ覚悟を持って活動を始めたので、共感できることがたくさんありました。茨城ロボッツと共に、茨城県のスポーツ界を盛り上げるために、今後も必死に活動を続けて行きます。
(インタビュー:山根将大)