茨城の野球人へのインタビュー企画「茨城の野球人」
Profile
名前 | 山野 勝義(やまの かつよし) |
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誕生日 | 1942年10月2日 (80歳) |
出身 | 茨城県下妻市 |
野球歴 | 下妻中→結城一高→国鉄→下妻中学(監督)9年→下妻一高(監督)23年→常総市立石下西中(監督)5年→筑西田宮ボーイズ(監督)5年→山野野球塾(塾長) |
下妻一高の指導者として23年間携わり、数多くの名選手を輩出し、1,000名近い茨城の野球人を育てた名将にインタビューしました。
野球を始めたのは、巨人ファンである祖父が後楽園球場に試合を観に連れて行ってくれたことです。野球に魅せられて下妻中学校では野球部に入部しました。
高校は結城一高に進学し、足腰を鍛えるために下妻から結城一高まで、片道25kmを頻繁に走って通っていました。授業の間の休み時間には、グラウンドに行ってタイヤ打ちをしました。甲子園に行けばプロ野球や社会人野球から声がかかると思ったため辛い練習も日々耐えられました。甲子園出場はできませんでしたが、野球への情熱は冷めることはありませんでした。
高校を卒業後は、東京鉄道管理局(現:JR東日本)に就職し、5年プレーしました。
巨人のプロテストを受験したが、最終で落ちてしまいました。バッティングは良かったが、駆け足がダメだった(笑)
選手を引退後、国鉄に勤めながら母校である下妻中学校で外部指導者として指揮をとり、合計9年間指導にあたりました。
その後、下妻一高の野球好きな先生に誘われました。私の練習はとても厳しいことで有名でした。往復約24kmの筑波山マラソンや、1,000本ノックが代表的です。元旦に行われる筑波山マラソンでは、選手たちが学校から筑波山神社まで走り、必勝祈願の参拝が終わると学校まで競って走る。また、合宿の際の1,000本ノックは、OBにも協力してもらい終了後はグランドが大きな感動の涙で包まれました。精神力を鍛えるために、限界に挑戦することが大切です。
決勝戦に進出し、江戸川学園取手との試合がテレビ放映されるときに、国鉄職員がテレビに映ってはいけないと言われ、すぐに国鉄を退職しました(笑)
家業が新聞屋だったので、すぐに決断できました。
下妻一高監督時代は、数多くの思い出が残っていますが、次男と親子で決勝に行ったことは思い出に残っています。
また、たくさんの優秀な選手を輩出してきた中で印象に残っているのは、斉藤学投手(中日ドラゴンズ→福岡ダイエーホークス)です。一週間に合計3,000球を投げ込んでました。昭和55年夏の大会では茨城県大会決勝に進出し、翌年は主将として活躍してくれました。
監督現役中に、自分でグラウンドも作りました。その後も、下妻一高が命なので、すべてを捧ぐために、合宿所、室内練習所などをたて続けに作って、下妻一高の野球部に貢献しました。下妻一高生を下宿させて、毎朝早朝新聞配達をしてから学校へ行く生活でした。江戸川学園取手との決勝戦も、選手は朝に新聞配達をしてから水戸市民球場に向かいました(笑)
引退後は、地元の少年野球チームなどにグラウンドを無料で貸し出してましたが、3年前に下妻一高に寄与しました。
育成功労賞を受賞
監督引退後の平成19年の8月15日に日本高等学校野球連盟から育成功労賞を受賞しました。(育成功労賞とは、高校野球の育成と発展に貢献した指導者に対して贈られる賞)
授賞式は甲子園球場で行われ、下妻一高のユニフォーム姿で授賞式に参加しました。その日の甲子園球場では教え子たちから「ヤ・マ・ノ」コールがありました。自分が表彰されるよりも選手たちに甲子園で試合をさせてやりたかったです。
大阪タイガースなどで活躍した元プロ野球選手の田宮謙次郎さんからお声がけをいただき、「筑西田宮ボーイズ」の監督としても5年指揮をとりました。今は、教え子が指導者として携わっているので、嬉しく思います。筑西田宮ボーイズを勇退後は、体調のこともあり、野球の指導から遠ざかっていたが、知人からの相談で、個人的に子どもを指導していたのがきっかけで、輪が広がり「山野野球塾」を開設するまでになりました。
「山野野球塾」では、「明るく・楽しく・元気よく」をモットーに野球をする技術よりも挨拶や礼儀、思いやりを中心に教えておりました。
これまでの人生を「野球」に捧げてきた「野球馬鹿」です。茨城の野球界の発展をこれからも見届けていきたいです。
とても野球への愛や情熱を感じる素敵な方でした。教え子の方々への愛情も感じ、山野さんから指導を受けてみたかったという気持ちになりました。著者の私の高校3年生の初戦が下妻一高でした。粘り強いチームとして今でも印象に残ってますが、山野さんのインタビューを通じて、伝統校の強さの原点が分かった気がしました。時代や環境によって指導方法の賛否が別れる野球ですが、山野さんが築いたことは、今でも茨城の野球界に生きていると思ってます。大先輩方の意思を受け継ぎ、茨城の野球界をより発展させるために、球団も精力的に活動していきます。
山根将大