茨城の野球人へのインタビュー企画「茨城の野球人」
Profile
名前 | 井坂 亮平(いさか りょうへい) |
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誕生日 | 1984年10月19日 (38歳) |
出身 | 茨城県取手市 |
野球歴 | 城西ブルーサンダース→白鷺ヘロンズ→取手東中学→藤代高校→中央大学→住友金属鹿島→東北楽天ゴールデンイーグルス(’09~'14) |
無心でボールを追いかけた少年時代

最初からピッチャーではなかったのですね
中学は取手東中学(現 取手第一中学)に進み、野球部に入りました。最初は内野手でしたが、中学2年生の時に監督さんから声をかけられ、投手に転向しました。自分自身、ピッチャーなんて出来るとは思っていなかったですし、他に良いピッチャーもいたので、本当にびっくりしました。あの時に抜擢されていなければ、プロ野球のマウンドに上がる事も無かったと思います。今思えば、大きな転機であり、当時の監督さんには本当に感謝しております。中学3年生の時に長峰昌司(元 中日)がいた鉾田南中と県選抜大会で対戦し、何とか勝利できたのは印象に残っていますね。
龍ケ崎一高を幾度となく甲子園に導いた持丸修一監督が率いる藤代高校に進学
この大会では茨城県から常総学院、水戸商業と同時に3校が出場し、後にプロでプレーすることとなる大崎雄太朗(西武)、横川史学(元 楽天)、長峰昌司(元 中日)等らの良いライバルに恵まれ、充実した時間を過ごせました。ただ、まだこの時点でも、プロというものは全く意識しておらず、ただがむしゃらに野球に明け暮れた高校時代でした。

初めてプロを意識した大学時代
東都大学リーグの中央大学に進学しましたが、2年生の時に肘を痛め、ボールが投げられない状態が続きました。この時は、その先の野球人生を考えらなかったですね。でも、2学年上の亀井義行(巨人)さん、1学年上の会田有志(元 巨人)さんが続けてプロ野球の道に進まれたので、自分も同じ道を進みたいと思うようになりました。特に、同じピッチャーの会田さんがプロに行った事でその意識が強くなりました。それと、忘れちゃいけないのが同期だった中澤雅人(東京ヤクルト)。彼とはライバルとして、良き友達として切磋琢磨していました。中澤がいなければ今の自分はありませんでした。
地元 茨城県の住金鹿島へ就職
社会人野球は3年やって声プロ野球から声がからなければ諦めようと思っていましたが、2年目のドラフトで楽天から指名いただき、プロへの道が開けました。(1年目に都市対抗進出に貢献したが、肘痛に悩まされ都市対抗のマウンドには上がれなかった。予選終了後に初めて肘にメスを入れ、1年後のプロ入りに繋げた。)
プロ初登板の事は覚えていますか?

プロ野球で印象に残っているバッターはいますか?
松中信彦さん(元 ソフトバンク)、と中島裕之さん(オリックス)ですね。松中さんは懐が深く、構えに余裕があって、どこに投げても対応されてしまう雰囲気がありました。アマチュア時代には感じたことのない恐怖心を覚えましたね。中島さんはとにかくよくボールを見極める方で、詰まるのを恐れずに振り切ってくるので非常に対戦するのが嫌なバッタ-でしたね。
心機一転、社会人としてゼロからのスタート
現在は営業職として働いています。地元の取手市から都内に通勤しています。やはり住むのは茨城が一番ですね。
現役時代はパソコンを操作することはほとんどありませんでしたが、今ではワード・エクセル・パワーポイント等ができるようになってきました。企画書も自分で作っていますよ。
元プロ野球選手としてではなく、一人の営業マンとしてお客様に認めてもらえるよう日々精進しています。プロ野球ではケガとの闘いが長く続いたので、社会人となった今は少々の事ではへこたれません。
ルートインBCリーグについて一言
小さい子供が野球をやれる環境はどんどん減っていますし、サッカー人気に押されて、明るい話が少ない中でとても意義のあるものだと思います。子供が公園で野球をやっているのを見かけたりするのがほとんどなくなっているのはいつも寂しく思います。あと、挑戦する選手にはとにかく野球をやれることを幸せに感じて、がむしゃらにボールを追いかけて欲しいです。そういう必死な姿を見た子供たちが、野球をやりたいと思うんではないでしょうかね。
「いろいろな方に出会えたお陰でよい野球人生が送れたと思います。社会人になった今は全てが勉強です」と終始謙虚に語ってくれました。これまでの野球での輝かしい功績に奢ることなく、社会人として貪欲にスキルアップを図っていらっしゃる姿には本当に頭が下がりました。次は野球人としてではなく、社会人としてお話を伺いたいと思いました。
(インタビュー 倉持智弘)
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