茨城の野球人

大崎 雄太朗さんの野球人インタビュー

茨城の野球人へのインタビュー企画「茨城の野球人」

Profile

名前 大崎 雄太朗(おおさき ゆうたろう)
誕生日 1984年10月18日 (33歳)
出身 茨城県つくば市
野球歴 茎崎ファイターズ→龍ケ崎シニア→常総学院→青山学院大学→埼玉西武ライオンズ(’07-)

これまで「茨城の野球人」でインタビューした同世代の選手が目標にしていた選手である「大崎雄太朗」さん。

決して恵まれた体格ではない彼は、目標とされるだけの”努力家”であることがわかった。

また、地元・茨城県の野球界へ恩返しとしての支援も積極的に行っている。


 野球を始めたキッカケは?

小学校2年生の時に友達からの誘いで野球を始めました。

茎崎ファイターズは、当時から毎年茨城県で優勝を狙えるチームだったので「どうやったら試合に勝てるか?」ということを考え、常に選手全員が共有していました。そのため、とても規律の厳しいチームでした。さらに、とにかく練習をしていました。

茎崎第一小学校のグラウンドで平日は夕方練習して、さらに土日は一日中練習していました。

茎崎ファイターズはかなりの練習時間を行っているので、いまでも毎年強いです。

今はあり得ないかもしれないですが、当時はゴルフツアーのように毎週大会がありました。

 

他のスポーツはやっていなかったのですか?

野球を始める以前の5歳から柔道をやっていたのですが、小学校へ入学した頃から父親と、弟の大二朗と毎日競争しながら1.6キロコースをランニングしていました。やる気がなかったり、決まったタイムに届かない時は、もう一本走ったことも度々ありました。ランニングを始めてから野球1本に絞るまでは柔道がメインでした。この頃から限界突破の訓練を、かなりやらされていました(笑)

 

どのような野球少年だったのですか?

小学校6年の5月に肘の故障と成長期が重なり、中学1年生が終わるまではノースローの時期がありました。中学2年生の時までは、月1、2回しかボールを投げませんでした。

中学校からは、ボールが投げられない日々が続いたので、素振りと走って基礎体力を作ることに力を入れていました。父親が自転車で追いかけて来ながら兄弟2人で4キロコースを走った後に、ティー打撃を20球10セット以上がノルマで毎日トレーニングしていました。

ちゃんとボールを投げられるようになったのは中学3年生からでしたが、その後もトレーニングは毎日行なっていました。

今考えると、小学校の時からランニングを付き合ってくれた父親には、とても感謝しています。

プロ野球選手は、正月の自主トレの相手に困ることが多いのですが、私は、弟と父親が付き合ってくれるので、今でも練習相手に困っていません(笑)

小学生で長峰との対戦はとても衝撃体験でした。同学年で実力があり体格も大きい投手と出会って、これからも必ず対戦する機会があると思っていました。

それ以来、高校3年生までは対長峰を想定して素振りをしていました。

高校3年生の夏の大会の決勝でエース長峰の水戸商業と当たったのは、運命だと思いました。ずっと想定して練習してきた相手だけに、甲子園をかけた決勝戦という舞台でやるには手強すぎるレベルでした。一番やりたくなかった相手でした。 


茨城県の野球についてどう思っていますか?

茨城はすごく野球人気が高いと思っております。

特に、高校野球の応援人数がとても多いと感じています。今は埼玉県にいてTVで高校野球を観ますが、茨城の方が観客が多い印象を受けます。

 

大崎さんの経験を基に、今の茨城県の野球少年にアドバイスをお願いします

現在は情報が溢れているためか、昔に比べて今のピッチャーはツーシーム等の変化球が上手な選手が多いと思っています。

その反面、トレーニング科学も向上して、ずば抜けたエンジン力をもった選手も出て来ていますが、全体的にエンジンが大きい選手が少なくなってきた印象を受けます。

上でやればやるほど欲がでて来て「ボールを遠くに飛ばしたい」や「150kmを投げたい」と思うようになります。

プロの投手は、球を速くすることを目指しますが、コントロールも大切で、ストライクとボールの出し入れが必要になります。

プロの打者は、遠くに飛ばす力や速い球に対応するスイングスピードが必要ですが、ホームランだけでなく、ヒットを打つ技術や走塁技術も生き残るために必要になります。

自分が生き残って行くために、何を伸ばしていかなければいけないかを考え、必要に応じたプレースタイルに変更していかなければ行けないという葛藤が生まれます。

そのため、若いうちから、小手先の小細工だけが上手くなりすぎると伸びなくなることが心配です。

上のステージでは、「速い球を投げる力」や「ボールを遠くに飛ばす力」のエンジンを大きくすることができにくくなります。

若いうちは、そのようなエンジンを大きくすることに磨きをかけて欲しいです。


大崎さんのバッティング技術はどのようにして磨いてきたのですか?

アマチュア時代に大切にしてきたことは”質”より”量”をこなすことです。

人間は本質的に苦しみを避け快楽を選ぶ傾向にあるとされています。

「”質”の高い少ない量」をこなす事と、「質は関係なく多い”量”」をこなす事を天秤に掛けて、最終的にどちらが日本代表へ近づけるのかを考えた結果、僕は”量”を選びました。

小、中、高、大の全てのステージで全国優勝が本当に狙える、チームメイトに恵まれた環境で野球ができました。そのため、チーム内の競争にも勝ち抜かなければいけないという意識もあって、自主練習をかなり大切にしてきました。

高校時代は、寝る前に寮で毎日素振りしていました。それ以外に室内練習場で、現在 常総学院野球部部長の松林を連れて、1箱120球あるボールを1~3セットのティー打撃を一緒にやっていました。常総学院の室内練習場は宿舎から離れていて、街灯がない暗い夜道を通り、さらに室内練習場についても電気のスイッチが一番奥にあったので、自主練習を開始するまでは怖かったです(笑)

その高校時代よりも、大学時代が一番バットを振りました。

素振りをしすぎて、腰に負担がかかり腰が張る時期もありましたが、学年を重ねるごとに体が強くなってきたので本数を増やしていきました。

大学4年生の時には、全体練習とは別に自主練習で3時間かけて600本振っていました。青山学院の4年間では、自分が関わった上下7学年を含めると14人ものプロ野球選手が誕生しました。みんなが僕と同じようにやっていたわけではありません。僕に必要なのは、とにかく量をこなすことだと思っていました。公式戦に合わせて調整するのではなく、とにかくやることはしっかりやって試合で活躍すればいいでしょ!という考え方で大学時代を過ごしていました。

しっかりとした量を確保するために、とにかく己と向き合う事。鏡に映る自分と毎日3時間程度の時間を確保してしっかり素振りをやりこみました。

 

人一倍努力するきっかけとなったのは?

父親からは、人と同じことをしていても、人と同じようにしかならないと常に言われて育って来ました。本当に自分の中で本気になったのは、高校の入寮の時からです。

高校時代の常総学院は常勝軍団だったので、そのため勝つための練習をおこなっていたため、実践練習が多かったです。

練習試合の数は、全国でもトップだと思います。

そんな常総学院で木内監督から「仁志敏久さん(元 巨人)は、高校時代に毎日素振りしていた」とミーティングで聞いたので、先輩の仁志さんのようにとにかく素振りしました。

大学時代は、青山学院大学の先輩である小久保裕紀さん(現:侍ジャパン監督)が毎日1,000本振っていたと河原井監督から聞いて、真似をして振っていました。

先代からの情報をわざと鵜呑みにして、まずはやってみました。

さすがに練習以外で1,000スイングは身体がもたないと感じて、大学1、2年生の頃は300スイング。

授業の卒業に必要な単位も残り少なくなった大学3年生からは、毎日の全体練習、自主練習の打撃以外で600スイングを自分のノルマに課してやり抜きました。

 

いつ頃からプロ野球選手を目指したのですか?

小学校からプロ野球選手は憧れでしたが、現実的な目標として、日本代表を目指していました。身長169cmと小さかったため、プロ野球選手になれるとは思っていませんでした。

中学、高校、大学も常に日本代表を目指していました。

ただ、弟の大二朗が先に高校の日本代表になった時は嬉しかったけど、羨ましかったのを覚えています。

プロ野球選手を憧れから目標にとらえたのは、大学3年時に日本代表に選出されてからです。結果的に当時の日本代表メンバーの殆どの選手がプロへ入団しました。高校2年生の時は、常総学院3年生の先輩に日本代表が3名いました。当時の日本代表には、同学年の明徳義塾の森岡良介(元 ヤクルト)がいました。

日本代表から帰って来た先輩に、「森岡と同じタイプだ」と言われ、森岡を意識して練習しました。

その森岡のいる明徳義塾と3年生の夏の甲子園で対戦し、目の前で甲子園球場の中段に入る完璧な決勝ホームランを8回に打たれ、力及ばず負けてしましました(第84回大会3回戦 明徳義塾7ー6常総学院)。

プロ野球選手はドラフトで指名されないと入れませんが、日本代表はチームも含めて結果が出ればメンバーに入れます。日本代表は自分で掴める場所だと思っていたので、日本代表を目指していました。


プロ入団当時の目標と、プロ野球選手の魅力は?

もちろん1年目からレギュラーとしてタイトルを取るところまで活躍することが最大の目標でした。そして10年はプレーするぞ!と。10年経った今、これからは、1年1年を勝負していかなければいけません。

プロに入るまで、いろんな方の支援を受けていました。大学時代は、先に社会人になった次男の大二朗が、自分の給料から学生の身分では行けなかった焼肉やステーキをご馳走してくれたり、手持ちのお金が少ない時には援助してくれました。親にも感謝していますが、弟にも感謝しています。

プロに入れたことによって、家族へ恩返しが出来るようになりました。

3兄弟の末っ子に10個下の弟の健吾がいますが、バット、バッティンググローブ、アンダーシャツなどの使い古しを健吾にあげています。

オフシーズン中は、時間、もの、お金など、いろいろな方へ恩返しや支援ができる事が、プロ野球選手の魅力だと思っています。

入団当初から、埼玉県日高市にある児童養護施設 同仁学院の子ども達や職員の方達を、夏休みに西武遊園地とプールに招待したり、募金程度ですが支援金もお渡しさせて頂いております。

子どもたちへのサインを含めて、茨城に帰ってきたら、竜ヶ崎シニアへユニフォームや野球道具などすべてを寄付しています。

自分がこれまで与えられた分、今後も与えていきたいと思っております。

茨城に野球選手の土台を育ててもらったので、プロ野球選手として恩返ししたいと思っています。

だから、後悔しないよう、1年1年を戦っていきたい。


 プロ野球の厳しかったことは?

単刀直入に言うと、チャンスは平等ではないことです。しかし、本当の本当に力がある人は、どんな形にせよのし上がっていくと思っています。

今の僕自身ができることは、休まずに毎日数字を残し続けていくことしかできません。

日々精進することですね。

 

 今後の目標は?

こんな人生を生きている分、紆余曲折がありましたが、他の人が真似できない目標を立てて生きていきたいです。時代の流れに乗りつつ、周りに流されることなく、その時その時の目標にしっかりと向き合っていき、運命を切り拓いていきたいです。

 

 茨城県民球団に期待することは?

茨城の産業は農業で、観光スポットなど娯楽が少ないイメージです。

県外から、茨城に移住する人も少ないと思います。

野球の運営で地元企業の収益が上がり、茨城県に人を集められるような球団を作っていって欲しいです。

県外からも人が来るようになり、茨城が恩恵を受けられるような球団を目指してください。


同級生として、茨城の野球人として、尊敬できる努力家の大崎選手を今シーズンも応援していきたい。

(インタビュー:長峰昌司)

茨城アストロプラネッツオフィシャルサイト